1年が経って
前回新卒で入社後2ヶ月で現状を嘆き、今はほぼ1年が経過した。
当時は慣れるか壊れるかの2択と考えており、結果として慣れが勝った結果の現状である。
当時は自分より優秀だと感じていた同期もかなりの数が辞めていき、現在は自分も上からある程度の評価を受けているという現状である。
しかし今も当時と全く変わらず自分の仕事を不要と思っていることは変わらない。
スキームなどは身につき顧客満足も当時よりも上がっているとは思うが、結局は虚業である。
自分の価値を見いだせない毎日。
なのに給料は同年代と比べればかなり多いという現状。
下らないことを下らないと言えた頃、
自分は余りに色々な事を諦めすぎたのではないかと考える現在である。
新卒で働きだして2か月半、絶望しかない。
今年の3月に大学を卒業し、4月から今の会社に入ったわけだが、現状はタイトルの通りである。
大学時代は真面目に勉強しかしてこなかった自分が「今まで接してこなかった人種の人たちと仕事をしてみたい」などと考え、バチバチの営業会社に就職した結果がこれである。
同期は異色の経歴を持つものばかりで大体は自分で事業をしていたものかスポーツで全国大会に行っていたような者たちばかりである。
正直自分がなぜこの会社の内定を得たのかは謎でしかない。合同説明会で交通費・宿泊費などすべて出すから遊びにおいでと言われて本社まで行き、個別説明会では交通費などを受け取っていたのは自分だけであったという謎の状況であった。
倍率は10倍程度だったのでそこまで高倍率の選考だったというわけではないが、自分以外の9人の方がよっぽどこの会社の社風には合っていたのではないかとは思う。
会社に入って2か月半。最初はどんぐりの背比べであったがだんだんと結果が出ているもの、出ていないものに分かれ始めてきた。無論私は後者である。
もともとのビジネスモデルが仲介業であるため、自分の仕事が社会に役立っているという自覚も全く生まれないし、なんなら会社や自分の利益を最大限に上げようとすれば客に損をさせる(最大の利益を供与しない)という結果になる。
こんな経験も知識もない自分を信頼して仕事を任せてくれている顧客に申し訳ないという気持ちも当然生まれてくるわけで、そんな中で仕事をしても当然中途半端な結果しか生まれない。
上長には当然自分に非がある問題に関してではあるが、「馬鹿、クズ、死ね」と詰められる。
この仕事が向いていない・辞めたいと感じながらも、入社して1年も経過していない今の状態では今している仕事や会社、上司に関して何も分かっていないのではないかという思いの方が大きいのでとりあえずは自分で結果が出るまでは続けてみようと考えている。
麻痺するか・慣れるか・壊れるか。今の自分には皆目見当もつかない。
願わくば、壊れる寸前であった時に自ら引き返せる状態であったらなと思う。
寛容であることと期待しないこと
世界一優しい人は「世界一周りに期待していない人」だと思う。
ここ数ヶ月自分の周りで様々なことが起こり、情緒が不安定になった結果、些細なことで苛立ちを覚えたこともあった。
だが周りに期待しなくなってからは苛立ちを覚えることが少なくなった。要するに怒りや苛立ちは自分の期待・要望と現実との乖離が生み出すものであり、何も望まず、全てを受用すれば必然的に怒りは覚えなくなる。
故に強欲で周囲に結果を求める人間は怒りやすい傾向にあり、無欲で全てを受用する人間は周囲からは「寛容である」という評価を得る。
寛容であることは良いことのように思えるが、その実内面は植物と何ら変わりないと言える。
要するに周囲から「優しい人」と評価される人間は遠回しにつまらない人間であると思われているのだ。
だから他人に優しくして内面にストレスを溜め込んでいる人に言いたい。
お前がどんなにストレスを溜めて他者に都合の良い人間を演じても誰もお前に対して興味も持たないし気に留めることすらないのだ。他人の都合の為に生きるな、自分の為に生きろ。
それができなければ周囲に何も期待しないことである。
熱しやすく冷めやすい馬鹿には辟易する
小中学生の頃、購読していた本がムーと少年ジャンプなオカルト大好き少年であった私は、数日前にやっていた「やりすぎ都市伝説」は放送後のLINE LIVEに至るまで当然チェックした。
その中で根拠の無い説得力で(私の中では)お馴染みの関暁夫先生が「自分のことを信じられない人間は他人を信じられるはずもなく、第6の時代においては他人と信じ、尊敬しあう関係が必要であるから~~~~~他人を信じるために先ずは自分を信じよう」みたいなことを仰っていた。
その話を聞いたとき、酒を飲みながら熱弁する関さんの圧に押されたこともあったかもしれないし、カフェインの多量摂取によって興奮していたからかもしれないが、胸が高鳴り、自分が日常を送る中で覚えていた違和感が消え去っていったような感覚がした。まさに啓蒙されたといったようで自分の中に新しい価値観が生まれた瞬間だった。
恐らくこの感覚は明日の朝に起きれば忘れ、また自分を卑下し他人の腹の底を邪推するような生活に戻るだろう。この経験が自分の思考になんの影響も与えなかったのであればその程度の話だったということである。
だがもし今後の思考にも影響を与え続けていくのであれば、自分の価値観が変わった日を記録しておきたいので、1年以上放置したブログを備忘録として使っていこうというのである。
ひとつ確実な学習体験となったのは、今回の経験を通して自分は案外熱くなりやすいのかもしれないという懸念事項はできたので、宗教やサクラを使った販売活動には注意しようと思ったことだ。
長所と短所
以前書いた記事からブログを約2カ月間放置した。その内容は図らずも「3日坊主」やはり言霊というのは存在するのだろうか、それとも自分の中でやめる理由が欲しくてあんな記事をかいたのだろうか。
しかし、そんな話は今回書く内容とは関係ない。
僕はバイクに乗るが、別にバイク好きではない。それでも毎日バイクに跨る理由は、金銭的な物ものであったり、場所的なものであったりする。僕にとってバイクというのは移動手段に外ならず、それ以上でもそれ以下でもない。
なんなら風が冷たかったり、雨に当たったり、臭かったりするなど、文句はいくらでもいえる。寒くなるとエンジンのかかりが悪くなるのも問題の一つだ。やれエンジンオイルやれバッテリーと整備をしようとすると、そこには「皮膚がんになる恐れがある」なんて恐ろしい文言が書かれていたりもする。移動手段の為に命まで落としたら最悪だ。
そんな話をバイク好きにすると、彼らは口を揃えて「それが魅力だ」と語る。気候を肌で感じながら体で風を切る。五感で「走っていること」を感じられるのがバイクの魅力らしい。彼らにしたら時に危険を伴うバイクの整備すら自分で苦労して整備したバイクが好調に走る姿をみるだけで喜びに昇華するらしい。まったく羨ましい話である。
僕から見たら不便の塊な乗り物は、彼らにしたらロマンの塊な訳だ。
長所と短所は同じ事象であっても受け取る人間によってどちらに分類されるかは変わる。実体験からこんなことを学んでも、エントリーシートの短所の欄は瞬間で埋められるのに、長所の欄は埋まらない。
上記の話からすれば、僕のことを好きな人に書いてもらえば解決なのだが、困ったことにそんな人は今までの人生でただ一人も居ないのである。
3日坊主
3日坊主という言葉を言われる度に思う、「3日は長い」と。大抵のどうでもいいことは寝て起きたらもうやる気が無くなるため、自分の場合は当日坊主が多い。3日も続いたら大体1ヶ月は続けている。
このことの要因として、1番に自分の忍耐力の無さが挙げられると思うが、現代人には選択の機会が多いことも挙げられると思う。「3日坊主」という言葉が作られた時代に比べ、個人が日常的に行えることの選択肢が格段に増えている。選択の数が増え、経験を積んだ我々現代人は、3日も経たずともその行動が自分にとって有意義かどうか判断出来るようになっているのではないだろうか。
しかし、このように自分を正当化する行為は20年近く続けている訳だが、有意義かどうかの判断は未だに出来ていないところみるに、やはり自分の性格が問題なのだろうか。